多木浩二 ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 についてのメモ
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→デジタルイラストにアウラを持たせられるか?
引用部分が多すぎて引用の要件を満たしきれていないかもしれない。折りをみて追記する。
技術的パラダイムは、どんな場合でもまだ実現しない可能性を含んでいる。その可能性がなんであったかはのちの出来事が起こってから初めてわかってくる。
p37
芸術作品の複製は、すでに十九世紀の半ばの初期には行われていた。写真家シャルル・マルヴィルはルーヴルの芸術作品を撮影していた。写真家シャルル・ネーグルは中世の建築の遺跡を記録して歩いた。多少滑稽に思えるだろうが、芸術作品を撮影した写真も芸術作品であるかのように扱われ、展示されることもあった。その後、複製技術も印刷技術も飛躍的に発達し、画集、写真集はおびただしく社会に氾濫するようになった。それにたいしてもはや誰も違和感を感じなくなった。アンドレ・マルローをして『想像の美術館』といわしめる状態が生じた。しかしベンヤミンの追求は何が芸術に生じたか、だった。
p39
カメラを利用する方法は、異常心理をもつひとや夢を見るひとの個人的知覚をも、集団的知覚が自分のものとしてゆくことを可能とする手続きに、ひとしい。(一七七ページ)
p95
触覚的受容
こうした建築経験の全体が、いわば触覚的というべき受容を形成している。触覚的受容とは手で撫でるとか、指先で接するとかの場合の知覚をいうのではない。すでに述べたことであるが、時間をかけ、思考にも媒介され、多次元化した経験にともなう知覚を「触覚的」(ラテン語起源のtaktileをベンヤミンは使う)と呼ぶのである。この触覚的受容のなかには、何気無くちらっと眺めるという視覚的受容も含みこまれる。あらためて建築を注視し、精神を集中させてその意味を考えてみようとするのは、建築家か建築の研究者、それに遺跡を求めて有名建築の前に立った旅行者などである。これらは例外である。
触覚的な受容は、注目という方途よりも、むしろ慣れという方途を辿る。建築においては、慣れをつうじてこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる(一八三ページ)
p123
触覚的(taktile)受容は「慣れ」という方途を辿る、はおもしろい指摘
ベンヤミンの時代では、厄介な課題に挑むには、くつろぎながら、映画によって触覚の練習をすることになるのである。
p127
「慣れ」の受容をするには「くつろぐ」のが必要という考え方。視覚的にびっくりさせるのとはまた違いそう。全体を通して映画にかなり期待していたっぽい雰囲気。映画を観ることそのものが受容の練習になる。どうして映画にそこまで期待してたのか? はよく読み取れなかった。
写真のアウラ解体を精緻に判断し、映画に可能性をみたベンヤミンを、視覚の人だと思うのが普通であろう。もしそうだったら、論理はもう少し容易であったかもしれない。ところがベンヤミンが触覚に可能性を見たのは、はるかに深く、複雑に歴史が変わっていく過程を読む能力の根源に触覚があったからである。繰り返すようだが「たんなる視覚の方途では、少しも解決されえない。それらの課題は時間をかけて、触覚的な受容に導かれた慣れをつうじて、解決されていくほかはない」のである。もちろんこの経験には目の作用も織り込まれているが、ベンヤミンは「触覚的受容」を根源と見做した人であった。そのようにして歴史の転換点を超えていこうとしていたのである。
p127
以下3章の翻訳部分よりぬきだし
最高の完成度をもつ複製の場合でも、そこには〈ひとつ〉だけ脱け落ちているものがある。芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものだけれども、この特性、いま、ここにあるという特性が、複製には欠けているのだ。しかも芸術作品は、この一回限りの存在によってこそその歴史をもつのであって、そしてそれが存続するあいだ、歴史の支配を受け続ける。
(中略)
オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、その真性性の概念を形成する。そして他方、それが真正であるということにもとづいて、それを現在まで同一のものとして伝えてきたとする、伝統の概念が成り立っている。
p140
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オリジナルが「そこに在る」ことが真正性を保証する
ただ、機械による(カメラなど)複製は偽造品というわけでもない。オリジナルとは違う自立性を持っている
①カメラによって人間では知覚できない細部を見せたり強調できる。引き伸ばしや高速度撮影なども。
②オリジナルから遠く離れたところまで届けることができる。(大寺院も愛好家のアトリエに、大ホールの合唱も室内に
↑この辺はオリジナルが存在する前提になっているので、デジタルものと安易に結びつけるとよくないかもしれない。
古代の芸術作品は儀式的な価値が主であり、のちに芸術的な意味が付加された
近代になるにつれて芸術が(時間的にも空間的にも)一般に開かれ、儀式的価値よりも「展示的価値」が重視されるようになった
その変化により芸術が揺さぶられている
写真の誕生により展示的価値が増大して礼拝的価値が駆逐されるが、礼拝的価値が維持される最後の砦は「人間の顔」である、という主張はかなりおもしろい↓
肖像写真が初期の写真の中心に位置するのは、偶然ではない。はるかな恋人や故人を追憶するという礼拝的行為のなかに、映像の礼拝的価値は最後の避難所を見いだす。人間の顔のつかのまの表情となって、初期の写真から、これを最後としてアウラが手招きする。だからこそ憂愁にみちた、比類を絶した美しさが、そこに生まれ出る。
p152
ポートレートを見たとき、「これは写真である」という感覚がなく、いきなり「これは誰々である」とか「かわいいな」とか被写体そのものに目がいく現象と関係してるのか?
森倉円 - Girl Friend を見たとき、ポートレート感がすごく強くてメディアに対する注意が薄れてはいた(いわゆる「どうせプリントアウトだろう」のような冷めた印象が無く、絵を絵として楽しめていたように思う)。デジタルデータをプリントしたものだ、という意識が抜け落ちてただキャラクターを見つめていた。
(いささか強引な想像)性的なニュアンスを強調しすぎると、人ではなくモノとして消費する対象に近づくので、ポートレート感が薄れるのではないか。
女性のイラストレーターは比較的性的なニュアンスを抑えて描く傾向が感じられる。ポートレート感(実在感)の付与に一役買っている?
ただそれにアウラを感じたか?というとまたよくわからない。ポスター(数千円)とは別にジークレープリント(価格帯がずっと高い)も受注していたけど、印刷の質感を高めても複製物は複製物であり、どんなにラフでもいいから手描きがほしい!みたいな気持ちからは逃れられなかった。
とはいえ複製芸術にアウラを持たせるにはポートレートしかないっていうのはあまりに淋しすぎるしなあという。
古代ギリシャ人が複製できたのは鋳造と刻印だけだった。芸術作品は常に永続性をもとめられた。
だからこそ現代芸術はいまでもギリシアの芸術作品と対比して語ることができる(ギリシア時代の作品がまだ現存しているため)。
ベンヤミンは映画の特徴は「改良可能性」であるとしている
映画を作るために大量のフィルムを撮影し、モンタージュして1つの完成品を作る。単一の永続性とは対比されるもの。
ギリシア時代は改良可能性がもっとも少ない彫刻が最上の芸術とされていた。「モンタージュ可能な芸術の時代にあっては彫刻の凋落は避けられない」らしい
NFTはこの改良可能性の排除に役立つのか? 無限の編集可能性を断ち切って固定されたという証明になる
NFTの改変不可能な性質が「触覚的に」理解されるかというと疑問。ブロックチェーンの仕組みを頭で理解したとして、彫刻と同じレベルの「改変不能性」みたいなものを感じられるか? 頭ではわかってるけど、とはいえデジタルデータだよね、みたいな感覚から逃れられない。
プログラマーだったらもっと決定的にNFTの改変不能性を「触覚的に」感じられるのかもしれない。
エディションナンバーを作家自身が手描きで書いて、それ以降は改変しないという、よくある単なる約束事のほうが「ありがたみ」がなお強いのでは
Webサイトに改変不能性を持たせるのはかなり困難ではないか?
プリントアウトには価値が感じられないのに、リソグラフやシルクスクリーンには価値が感じられるのは、「版」が存在するからではないか。版を破棄すれば二度と同じものを再現できなくなる(改変不能性の固定)
以下雑記